桜写真

昨日(2018年8月27日)、さくらももこさんの訃報のニュースをYahoo!ニュースで見かけました。人生であまりした事が無いのですが、一度、視線を外してから、驚きで首ごと乗り出して見るという、典型的な二度見というやつをしてしまいました。

普段、有名人の死で、ここまで心が動揺する事もありませんが、さくらももこさんの死は、ちょっと違いました。

そのニュースを知った時、私はノマドワーカーをしようと、スタバに到着してPCを開いたばかりだったのですが、思わず涙というか鼻水がこみ上げてきてしまい、トイレに駆け込んで鼻をかみました。

急すぎる自分の悲しみに対処できずにいて、その慌てぶりはというと、トイレからスタバの座席に戻ると、500円ぐらいのお釣りがテーブルに無造作に置きっぱなしにしていた程です(笑)

30歳を超えたオジサンが、一体、何をやっているんでしょうね・・・。

それにしても、何だか不思議な現象です。普段、私は涙とは程遠い感じの人で、めったに泣きそうになるような事はありません。なぜ、ここまで、さくらももこさんの訃報で、悲しみがこみ上げるのか、自分でも不思議に感じたので理由を考えてみました。

その答えは、すぐに分かりました。ファンならご存知の通り、『ちびまる子ちゃん』の主人公・まる子の本名が”さくらももこ”だからです。

つまり、『ちびまる子ちゃん』という作品は、さくらももこさんの、自分の小学校3年生の時の姿を投影した書いたキャラクターなのです。だから、”さくらももこ”さんの死は、何だか、ちびまる子ちゃん自体の訃報のように感じられて異様に悲しみがこみ上げてきたのです。

ちびまる子ちゃんの放送が始まった時、私は小学校に上がった時ぐらいだったと思います。そして、ちょうど、『ちびまる子ちゃん』が社会現象となった頃は、私の年齢も、まるちゃんと同じ3年生ぐらい。親近感を持たずにはいられません。

だから、『ちびまる子ちゃん』の死というのは、何だか、昔仲良かった同級生の訃報を聞くような感覚でもあったんです。とはいえ、『ちびまる子ちゃん』が、全く作者を投影していないキャラクターであったら、作者が亡くなっても、私はここまで悲しまなかったと思います。

実際、ドラゴンボールの悟空が死のうが、クリリンが死のうが、驚きましたが涙がこみ上げる事はありませんでした。また、アンパンマンやドラえもんにも、子供の頃から親近感がありましたが、作者が亡くなったからといって、ここまでの悲しみはありませんでした。

やっぱり、私の頭の中で、『ちびまる子』が大人になって、『さくらももこ』という漫画家になったんだというような認識がありすぎたようです。どこか、私の中では、『ちびまる子ちゃん』はリアルな存在なんです。

だからこそ、よく知ってる小学校3年生の女の子が、夢を叶えて漫画家になって大成功して、そして急に亡くなってしまったと感じられて、強い悲しみに襲われたんでしょう。

きっと、私と同じ様な思考回路の人もいるんじゃないですかね。本当に悲しいです!

では、最後に、私が『ちびまる子ちゃん』で教わった事を書いておきます。それは、『嫌なこと』、『恥ずかしいこと』って、見せ方を変えるだけで、実はとっても面白くなるという事です。

人生って、嫌な事だらけですが、角度を変えてみるだけで、結構楽しく見えるもの!さくらももこさんは、そんな事を読者の私に教えてくれた漫画家さんでした。ご冥福をお祈りします。